壺中の独言

「天災は…」

秦 政博

第十七回

 

 「天災は忘れた頃にやって来る」―あまねく人口に膾炙される寺田寅彦の有名な警句である。しかし今では「忘れないうちに」次々と繰り返される天災だ。こともあろうに、よりにもよって正月朔日の祝い気分を吹き飛ばした今回の能登半島での大地震と津波。大火災・孤立・家無し・食料無し・水無し・燃料無し等など、痛ましい被災の様子を連日見聞きするにつけて、能登の人々の日々の大変な苦難が思いやられる。半月余りを過ぎたが、まだ被災の全貌はつかめずにいる。

 昔から怖いものの一番であったの地震(以下雷・火事、次の親父は今は存在感を失って等外に甘んじる存在)だが、記録に残された日本列島の主な大地震は『日本書紀』の416年の地震を初めに、2011年の東北地方太平洋沖地震まで103回。続く熊本地震や今回の能登半島沖地震などが加わって、列島はまさに動く大地の歴史でもある。今回の地震では能登半島北西海岸、距離にして約85kに及ぶ約2・4k㎡がおよそ4m隆起、港湾は機能不全になって復旧の見通しは立たない。北陸地方でのこのような陸化は4千年に1度といわれるそうだが、江戸期にもその事例が確かめられる。元禄2年(1689)出羽象潟(山形)を訪れた芭蕉は、「その朝、天能く晴れて朝日花やかに指し出づる程に、象潟に船を浮かぶ…江の縦横一里ばかり、俤(おもかげ)松嶋にかよひて又異なり…“象潟や雨に西施がねぶの花”」と、松島同様に島々の浮かぶ象潟の風光をたたえているが、文化元年(1804)に起きたマグニチュード7・1の大地震(象潟地震)によってこの一帯は約2m前後に隆起し、田圃の中に島を残すという残酷な風景に一変した。芭蕉が『奥の細道』で絶賛した115年後のことである。

 我が地大分の場合。慶長元年(1596)閏7月に起きた「慶長地震」の大地震・大津波も、能登地震と同じ海底断層(別府—万年山断層帯)の破砕によるもの。伝説の域を出ないが、別府湾内にあったという「瓜生島」はこの地震で海没した。「慶長元年亥刻大地震、当社拝殿・回廊・諸末社ことごとく顛倒(てんとう)す。またこの日、府中洪濤起きて府中ならびに近辺の邑里ことごとく海底となる」(「由原宮年代略記」)とか、「慶長元年丙申、閏7月12日大地震、海水陸地に溢れ豊府沖之浜の民戸10余を没し,町人多く溺死」(「稲葉家譜」)などがその有様を伝える。海に沈んだのは、たぶん春日浦の沖に広がっていた「沖之浜」に違いない。。また大分市の東海岸部、当時の原村庄屋記録(「三浦家文書」)には、「古へ大波大地震は申ノ年ノ7月9日7ツ半時之時分ニゆり出申候。大なミハ當本に打コシ、ナへ(地震)のゆり出シハ高崎よりゆり、おもわれ(亀裂)は長ふちよりミコだニかけ、われ申候」と伝え、海岸部にあった住吉村・松崎村(現5号地付近か)はいずれも、「是は古へぢしんニめっきゃく(滅却)」したと記す。陸化とは反対に大分では海没の事実が伝えられている。

 ともあれ温暖化の影響もあって、天地の両方から「天災は忘れないうちにやって来る」時代に生きている。天が崩れ落ちてきたらといらぬ心配のことを「杞憂」というが、明日に命をつなぐためには先立つ備えが肝要、「備えあれば憂いなし」だが、今は何よりも能登の被災の人々を懸命に支える時、どんな形であれ救いの手を差し伸べようではないか!