壺中の独言

退屈病

秦 政博

第十六回

 

 80余年という過去を抱えて来た者にとって、若者が過去に縛られずに未来に向かって生気を養うという、そうした新鮮さはない。何しろ未来そのものが壊れる間際に差し掛かっているからだ。新しいものに挑戦する意欲と行動力、変化と発展に向かう欲求が頓に衰退するのが老人の性というべきだろう。

 冬至近くのこの季節、以前からの早起きの習いで暗闇の最中に起き出し、6時半のラジオ体操を日課にしている。これだけは自分をほめたくなるほどの毎朝である。こうして一日の始まりはまことに元気がよいが、問題はそれからである。「さて今日は」で、その日の行動計画の策案にかかるけれども、本日も「退屈な平和」が待ち受けている。日々休日の老人たちに困惑をもたらしているのはこのことに他ならない。そこで「今日は何するか?」と、一人と一匹だけの相談相手に尋ねること再々にもなると、「何でもしたら」といわんばかりで一向にかまってくれない。まして(佐武という名の)一匹の方は返答に窮して「ワン」と一声だけ。朝から自分を持て余すような気持になるのは心身健康の身にとって決して良くはないが、仕方なしに自室に蟄居して「退屈な平和」を過ごすことになる。。

 精神科医の言説によれば、この「退屈な平和」は犯罪や戦争の危険までもはらんでいるというから穏やかではない。それは近日の日本の様子にも見られるらしく、「平和がつづき、オートメイションが発達し、休日が増えるならば…「退屈病」が人類の中にはびこるのではなかろうか」という(神谷美恵子『生きがいについて』)。確かに戦後80年近く平和に浸り、オートメ化・情報化がこれほどに進み、ロボットや生成AIというシロモノが人に取って替わる今日では、人はまさに「退屈の平和」の只中で「退屈病」の病原に囲まれて生きているみたいだ。中にはよからぬことを考え出す者もいるやに知れぬ。

ところがその一方、変化のない生活の中にあっても、心に病を持つ人は「退屈」を感じることはなく、「退屈」を感じるのは精神が健康である人の証拠であり、「退屈性」こそ健康のしるし、進歩の源泉であるともいう(『上掲書』)。「退屈」なるものは、このように二律背反の性格を持っているから話はややこしい。

 その昔「旗本退屈男」という映画があった。昭和4年を皮切りに戦後までに30回も制作された国民的人気を博した作品。主人公は旗本の早乙女主水之介、将軍にも直言する直参の侍。「退屈じゃ退屈じゃ」が口癖のこの男、しかし清廉潔白であり、権力の横暴・腐敗には正義の血がたぎるという庶民の味方、退屈をモットーとする御殿様である。

退屈病に取りつかれて「退屈じゃ」ばかり感じる毎日を過ごしている時、近頃政界にはびこる金権亡者の所行を見聞きするにつけ、早乙女主水介みたいな「退屈男」の再来を願いたくもなるというのも人情である。もちろん「退屈女」も大歓迎、「退屈」は男女の違いを超えて健康の証、進歩の源だから。諸君も「退屈病」に罹患しては?