壺中の独言

聞く力? 聴く力?

秦 政博

第八回


 

 「春なれや名もなき山の薄霞」(芭蕉)の名句のような季節である。「名もなき山」は拙宅に南面する近くの霊山や西北の高崎山、またその先に仰ぐ由布の峰を宛ててもいいだろう。卒業式のシーズンである。9番目の孫娘も、間もなく迎えるピカピカの中学生活に胸を膨らませている。

ちょうど1年前のこと、この孫が児童会長に立候補した。止せばいいのにと思ったが、その立候補の演説文?を見せられて苦笑した。「私は聞く力を持っています」と宣言しているではないか!いうまでもなく岸田首相が自民党総裁選の時、国民の声に耳を澄ますとして、手帳をかざしながら「聞く力」をアピールしたことを模しているのである。まさか親の教示ではと思い両親に尋ねたら、自分で考えついたみたいとのこと。そんな政治的な情報まで見たり聞いたりにしているのかと、身体髪膚の劣化が進む爺さんはいささか驚きを隠せなかった。その自己表現が受けたのであろう無事に当選したが、「聞く力」がその後どう発揮、実践されたかは当人に聞かずじまいである。もっとも最近の首相官邸では閣議決定先行で、約束したはずの「聞く力」に翳りが見え隠れしているとか、情報に耳ざとい官邸スズメ辺りの囀りも聞こえるが。

  「遊ぼう」っていうと「遊ぼう」っていう。 「馬鹿」っていうと「馬鹿」っていう。

  「もう遊ばない」っていうと「遊ばない」っていう。

 そうして、あとでさみしくなって、 「ごめんね」っていうと「ごめんね」っていう。 こだまでしょうか、いいえ,誰でも。

  良く知られている金子みすずの「こだまでしょうか」である。互いが気持ちを交わし合う、優しい情景を読み込んだ作品。片方の声にもう片方がなぞるように受ける、苦しいときに「苦しいね」、困ったときに「困ったね」、痛いときに「痛いね」と心を通い合わせる。互いが打ち解けるには、こうした思いやりの気持ちがあってのことだ。

  その根底にあるのは「聞く力」?それとも「聴く力」?ちなみに「聞」は「先方の声の耳に入るなり」という意味であり、もう一方の「聴く」という意は「このほうより注意してきく。念を入れて詳しくきく」ことである(『字源』)。つまり「聞く」は耳に届く色々な音を聞いている、聞こえているという受け身の対応であり。それに対して「聴く」は念入りに聴き、聴き分けることが出来るという能動的な聴き方だ。

  大事なのはもちろん「聴く」ことである。相手に寄り添いながら、じっくり身を入れて話を聴くこと、近頃いう「傾聴」という言葉に言い換えてもいい。そこには「共感」の気持ちや、相手を「受け入れ」る態度が伴うことはいうまでもない。願わくば意地や頑固の殻を脱ぎ捨てて、子供たち若者たちの声に「こだまし合う」よう「聴く力」に励みたいものだ。ついでながら、「傾聴」は高齢者介護にあっては、大切な介護手法であることもお忘れなく。

 

写真提供 / 津﨑佳治 (S.41卒)