壺中の独言

一陽来復

秦 政博

第七回


 

節分の翌日は立春、それを過ぎると春めいた空気が漂うのも強ち気分ばかりのせいでもない。もともと節分は、「冬が行き詰まって、春が鼻の先まで来て居る夜のこと」。冬と春の季節の分かれ目を指していう。つまりあたらしい年の前夜、旧年の最終夜とされていたから、旧い年の悪いものを押しやって新しい幸福を迎える行事が節分だったという(折口信夫「鬼を追い払う夜」)。そのおおもとは大晦日の夜に疫病をもたらす悪鬼を追い払う宮中の追儺(ついな)の儀式に遡るというこの由緒ある行事が、何年前からか、恵方巻と称する巻寿司を食べる日に見事に化けてしまった今どきの節分は、なんと意味不明の行事?になったことか!子供たちに、巻寿司を食べる日と記憶されることになるのではと老婆心ながら気がかりになる。

それはともかく、この前後に小庭のウメがみるみる開花して、メジロ夫婦が日を置かずにやって来るのを眺めるのは、この頃の楽しみの一つである。山では気の早いウグイスの初音がはじまっているのかも知れない。「春が来た 春が来た どこに来た…」の唱歌を口ずさみたくなるのは、老境が進んで幼児化して来たせいだろうか?早起きが倣いとなり「春眠不覺暁」の感覚はなくなったが、群スズメやヒヨドリの来訪もあって「處々聞啼鳥」の風情を感じ、4,5日おきに「夜来風雨声」に遇うことしばしば、ここにも春の足音が感じられよう。小庭にはまだ花は見かけないので「花落知多少」はしばらく待たねばならない。

車の運転はやや控えめになってきたが、過日春の暖気に誘われて国東方面に出かけた。道すがら枯野の中に緑が見え隠れして生気を覚えるひと時、耕作放棄地の田んぼの一角に濃緑の一面が広がっていた。麦畑である。手間取る割には少収益のためだろうか、めっきり植え付けが少なくなって、今やむしろ珍しい田んぼ風景にも見えてしまう。そのせいもあってか、一枚田の緑が際立って見えるのに往時の記憶がよみがえった。近辺が田んぼだらけだったその昔、二毛作が当たり前で今頃は麦の育つ時期。15センチ前後に伸びた麦の葉っぱが真っすぐな畝を為して幾条にも並んでいる。そして、冬から初春にかけては麦踏の時期だ。懐手にしたり、後ろ手を組んだりして畝の上を移動する。「黒い股引を長く踏んばって“ほき”あがった麦の葉をさっ、さっ、すっ、すっと踏んでいくのだが、踏まれた麦の葉が、しっとりと起き上がる気配を、後ろに感じながら…三反畑の麦の畝を、ずっと向こうの端れの高い畦まで踏んで行っては、くるりと向きを変える」(前田夕暮『烟れる田園』)。極寒の最中、この単調な動作が麦の徒長を抑え、分けつを促し、寒さに打ち勝つ力をつけるという先人の知恵である。

自由気まま、自分勝手、自立の心構えをはき違えたようなことがひどく目につく近頃、大人はもちろん子供の世界にも、「麦踏」の心得がいりそうな気がしてならないのは余計な思いだろうか。仲間たちよ、熟考に値しないか?