壺中の独言

老いの一徹

秦 政博

第六回


 

「終日、昏々として酔夢の間」(李渉)みたいにボンヤリと過ごしていても、一日はすぐに経ってしまう。そう感じる理由は幾つかあるらしいが、その一つは加齢によって体の代謝が落ちたためという。つまり体で感じる時計(心的時計)のゼンマイが緩くなって進み方に遅れが出て来るため、実際の時計(物理的時計)との間に差が生まれてくるからとか(『大人の時間はなぜ短いか』)。

 掃除、洗濯、命じられた雑用などを仕事代わり?にしている日常。これといった趣味もないが、敢えて言えばすきな書物を目の前にパソコンに向かって小見凡慮の駄文作りなど、まことに取り留めのない毎日を過ごしている。「佐武」との付き合いは間もなく13年、互いに白いものが余計に目立つようになり、足腰にサビを覚えることも再々になった。猫の額ほどの庭は「年年歳歳花相似たり」を繰り返しているが、人も犬も「歳歳年々」同じからず」。確実に下り坂を歩んでいる。

 下り坂ならず、晩年まで登り坂に挑んだ伊能忠敬の測量調査の日誌、「九州測量日記」を再読した。周知のように、忠敬は享和元年(1801)北海道東部を手始めに、辞世74歳の2年前までの17年間、日本各地を歩いて測量を重ね、ほぼ正確な日本地図の作製に尽くした人物。その契機は地球の大きさを知ろうとしたことからとか。そのため幕府天文方の高橋至時(しげとき)に弟子入りをした歳が隠居の身分になった翌年のこと、51歳の時である。「60の手習い」というが、それに先立つ手習いである(ちなみに、至時の師は杵築藩出身の天文学者麻田剛立)。豊前・豊後(大分県内)には文化7年(18101月から文化91812)年10月まで合わせて4回足を運び、中津から蒲江に至る豊後水道の海岸部一帯、竹田城下から府内・宇佐・羅漢寺方面、日田・玖珠の山間部などを巡って綿密な測量を行った。

 竹田城下から直入郡に入った忠敬等5人の測量隊は、およそ午前7時前後から村人の手伝いで測量開始、夜は恒星の天体観測を行うなど、連日休みなしに働いている。野津原村では「大曇天 雲間に5,6星測る」と曇天でも空を見つめ、僅かな雲間を探し観測を怠らない。宿泊地では近隣の藩役人や村役人などの挨拶を受ける。県内での測量は66~68歳の時だから、当時の年齢観からすると大層な後期高齢者に違いなく、その活躍ぶりはまさに「老いの一徹」、意志堅固にして頑固でもある。

間もなく大寒。「うしろから大寒小寒夜寒哉」(一茶)の時節である。暇をもてあまして炬燵に縮こまるようでは、「うしろ」から何かが忍び寄って来るかしれない。先師には到底及ばないが、「老いの一徹」にならって「手習い」でも始めようではないか。

出典「大分県歴史資料調査報告7 九州東海辺沿海村順」より