壺中の独言

わすれんぼ

秦 政博

第三回


 

「忘却とは忘れさることなり」とは、昭和27年から翌年にかけて放送された、NHKの放送劇「君の名は」の冒頭のセリフ。まだ小学5,6年生だったが、耳の奥にはっきりと残っている。たしか菊田一夫原作だったと思うが、放送時間になると銭湯の女湯が空になるとかいわれた人気番組だったらしい。ヒロインの真知子と相手の春樹の名前の外、冒頭のセリフに続く、「忘れ得ずして忘却を誓う心の悲しさよ」というフレーズもよく覚えている。

ところがここ最近、「忘却を誓わず」とも忘れることがとみに多くなってきた。一つのことをしている最中に、ふと別のことに気を取られていると、初めのことはわすれんぼ。同時並行がかなわない。日記にその日の食事も書いているが、夜書こうとするに昼食の一々を思い出せない、まして前日のことなどは言うまでもない。その都度、連れ合いに恐る恐る尋ねてお小言をいただく始末。物の名、人名、スケジュール等々わすれんぼの日々である。志賀直哉が自宅に訪ねて来た娘を雑誌社の婦人記者と間違えたり、藤枝静男が志賀直哉の命日をひと月間違えて訪ね、「いつまでたっても誰も来ない」といったこと(『日本の名随筆 老』)などのひどい事態はまだないが、「立ち上がる、なんで立ったか考える」という日常に、齢(よわい)80、どうやら認知機能に翳りが見え始めたようだと悟らねばなるまい。

『恍惚の人』の一節—「昭子さん、飯はまだですか」「嫌やだわ、お父さん、先刻(さっき)あんなにどっさり喰べたべたじゃありませんか、まだ2時にならないんですよ、ねえ嫂さん」」「腹が空いているんですよ、昭子さん」「そんなはずありませんよ、お父さん…」「飯はまだですかな、昭子さん」—半世紀前のことである、かつて「ぼけ老人」(平成16年から「認知症」)と云われていたころの昭和47年、有吉佐和子が「恍惚」という表現で、老人の生態を生々しく描いた先駆的な作品だが、近時の高齢者人口の右肩上がり(3460万人「令和3年年版厚労統計」)はこの状況を一層切迫させている。3年後の令和7年には5人に1人が認知症になりそうだと厚労省の怖い予測である。

福沢諭吉は、「回顧すれば六十四年、人生既往を想えば恍として夢の如しとは毎度聞くところであるが、私の夢は至極変化の多い賑やかな夢でした」(『福翁自伝』)と、「恍」の生涯を振り返っている。ならば「惚」はどうか?①うっとりする ②ほれる、心酔するなどの字義がある(『漢語林』)。取り越し苦労には及ばない、うっとりとした毎日、誰かに惚れたり、何かに心酔、没頭する日々を過ごせればいいのではないか。

歳を取ると忘れることは当然だ。若いころからの記憶を残さずしまい込んでは脳細胞がとても持たない。満腹であるのに更に食べよというのと同様だ。「頭の中はガラクタでいっぱいになるから、これ以上のことが入ってくるのは大変、とにかく忘れることに努める。忘れることで、頭の糞づまりが解消する」(外山滋比古『老いの整理学』)という、まことに上手い対処法があるが、わが脳細胞は簡単にはそのようには反応してくれない。いま流行りの断捨離を頭の中に進めたくとも、近時、近辺のことばかり忘れて、古い記憶の消去は時代遅れになった脳細胞ではうまくいきそうにないのである。やはり恍惚がいい。老人たちよ、昨日今日の記憶はどんどん忘れよう。若いころの記憶を反芻しよう。明日のことを思い煩うな!