壺中の独言

老人と老犬

秦 政博

第二十一回

 

 

「老人と海」は、釣った大魚に食らいつくサメとの3日にわたる老漁師の壮絶な闘いの物語だが、表題の「老人と老犬」は他愛ない日頃の生活風景である。老人は80をいくつか超え、老犬は15を幾ばくか過ぎた歳。どちらもヨボヨボというにはまだ早いが、それもそう遠くはなさそうである。佐武と名付けた愛犬が我が家の家族になったのは生まれて間もない頃、ヨチヨチ歩きで速足ではすぐに転んでしまう幼犬だった。マメ柴に近い血統書付きの天然記念物。10歳前後までは早朝、夕刻の散歩にそれぞれ1時間余をかけて飼い主の体調管理にも大いに貢献していたが、昨今はその半分時間ほど。来客にもほとんど興味はなく、よその犬に出会っても見て見ぬふり。よる年波のせいであろうか。

 『犬の力を知っていますか』(池田晶子)は、コリー種の愛犬ダンディーをめぐる哲学エッセー。愛犬との15年間の日常が心を揺さぶるような筆致で綴られ、魅了される一々には我が愛犬佐武に重なる思いがする。彼女はいう。「犬の力」とは「癒しの力、人の心を無防備にしてしまう力」であると。「目は口ほどにモノをいう」というのが、言葉を持たない犬(特に犬というが)にとって目は意志伝達の必須手段。佐武が「散歩に行きたいよう」「ウンコが出そうだよう」などを知らせる手だても目の様子から。隅っこから顔だけを出してチラチラ目をするは前者、頻りに後をつけ回り見上げ訴える目は後者など。早朝の散歩の後、部屋に上げるとヤオラ半伏せの姿勢を取って凝視する。飼い主が屈み加減をして追っかける様子を見せれば、部屋から部屋へと思い切りの駆けっこ。近頃はこれが毎朝の楽しみらしい。夜は同室、時に共寝と共々に「癒しの力」を交わす仲である。

 散歩の途中に出会う犬も様々、飼い主もそれぞれだが、どういう訳か連れの犬に相似形…と言ったら失礼になろうか。「仲の良い我々だのだが、一緒に歩いていると『似ている』と言われることが多くなった」と池田女史が叙述しているが、そうに違いない。若さはちきれる元気旺盛な気力と体力の頃、佐武は好き嫌いが歴然だった。好み犬にはヒュンヒュン声ですり寄る一方、そうでないものには反対道路にいてもひどく吠え掛かっていた。そういえば飼い主だって若気の至りに、何かとソソウして迷惑をかけた場面があったなと、この歳になって自省することしきりである。今は意気阻喪し沈殿しているのも佐武とても同様、やはり老年の相似形であろう。

賢い犬一例である。 明和8(1771)年、各地の人々が大挙して伊勢参宮を始めた「お陰参り」を契機に、「犬御参宮いたし候て参り候」という風聞が立ち、文化10(1813)には長州から子連れの犬が「伊勢参宮の由に御座候,宿々お気を付けなさるるべく…泊まり所にては…小布団」を用意という目を疑うような記録を伝え、以後明治初めまで「白」という犬の最後の参宮記録が残されているという(『犬の伊勢参り』(仁科邦夫))。

老人は膝痛、老犬は階段の昇降に困惑する歳になって、伊勢参宮はとても叶わない。ならば、せめて柞原八幡まではと思えども、老犬連れの老人にはかなり遠すぎる。手短かに、近くの天満宮で済ませようかな。もちろん共に「癒しの力」を願ってである。