壺中の独言

派閥と絆

秦 政博

第二十回

 

 

 派閥の弊害が政界を揺るがしている。元を手繰れば派閥の中での隠し事、コソコソやっていた金のやり取りが露顕。経緯の説明に当たって肝心な点は忘れんぼ、黒を白、馬を鹿と云いつのるような狡知さが祟って、処分やむなしという筋書きである。裏金問題に自浄を急いだかのような処分の在り方について、大方の批判・𠮟声の勢いは止む様子にない。

 聖徳太子が定めた「十七条憲法」(もっとも太子不在論・後世偽作説の歴史家もいるが)は小学生でも知っている。その第一条に「人みな党(たむら)あり」とある。人間は本性として派閥を創るというのである。電子機器相手に家で指遊びをしている子供でも、外では仲良し仲間をこしらえる。中にはガキ大将の下に集まってそれなりの地位を得、役割を努め、役得に与かる者もいる。これは人の行動的本性であるのか、或いは大人世界の模倣的行動であるのか。多分その両方に違いなく、要するに力を持つ者の傍にあって、自分の利を図ろうとする心根からだ。それに馴染まなかったり反発したりすれば、それから起因する面倒な反作用を覚悟しなければならない。人の世界は易々とは、「天上天下唯我独尊」というわけにはいかないようである。

「閥」は手柄を立てた家の門に建てた柱、転じて手柄の意味をも指す(『漢語林」』)。要するに利益集団のことであり、「派閥」「学閥」「軍閥」「閨閥」「財閥」「門閥」等々からして、良い印象は持ち得ない。他方、「絆」の場合はどうか。元の意は、牛馬などのあしをつなぐなわ、「紲」とも書く(同上)。これには「利」とか「益」に繋がる要素はない。木下長嘯子(きのしたちょうしょうし)は秀吉の正室高台院の兄木下家定の長男、織豊時代~江戸前期の人である。若狭小浜城主などで秀吉に重んじられたが、関ヶ原では石田三成の請いに応じず、「石田閥」を出て東軍に開城。戦後は剃髪して京都に隠棲の後、和歌の道を究めて文人生活を送り、沢庵・林羅山ら当代きっての知識人と親しく交わった。「閥」から「絆」への転身である。

 教員世界に限ったことではないが、「学閥」は割合に身近に感じる「閥」である。我が「豊友会」もその一つ、レッキとした「閥」であるが、実態は似て非なるものだ。しばしば「メリット(利点)」が感じられないという声が届く。当然ながら我等には「利」や「益」に通じる「メリット」は欠けらもないし、あるべきではない。あるのは同志の「絆」による融和、教育への献身と協力である。「メリット」はそれである。

 同志諸君、その「メリット」を醸成し、豊かな香味に仕上げていく担い手は誰の手に?「十七条憲法」には冒頭に「和を以って貴しとなす」とあるではないか。「絆」の力を強めよう!