壺中の独言

―敬老祝賀会―

秦 政博

第十四回

 

 

 

 9月1日時点の100歳以上の高齢者は全国で9万2139人、過去最多だった。ちなみに5年前(令和元年)と比べると約2万人という急増ぶりだ。9万人余のうち女性が8万1589人(88、5%)と、これまた男性を張り倒すほどの差をつけている。

 女性はなぜ長生きなのか?動物一般で言うと雌が雄よりも長生きをするのは、子を生み育て種の保存に尽くすといった生物的な強さがあるかららしい。人の場合、受胎の初め頃はみな女であるが、妊娠3か月頃に男性ホルモンが出ると男の象徴があらわれて来るとか。つまり受胎の時から女が先行している。これは自然の摂理と言うほかない。加えて、飢饉や遭難など命の危機に耐える力も男は女には叶わないという事実がある。一人になっても孤独に耐える力の持主は女である。「後家楽」というのは女性の専用語、寡(やもめ)の男性は「ウジ」と友達になるしかないというのは昔からの言い伝え(勿論、例外はたくさんある)。

 10人に1人が80歳以上という現実、我身もその仲間である。「人生は壮大な暇つぶし」というから、まだ暫くは暇つぶしに精を出さねばなるまい。時間はひとりでにはつぶれないし、独りでもつぶれない。潰す対象がいる。とは言っても、足腰に違和感を覚える齢、飛んだり跳ねたりはとてもできない。「明日ありと思う心の仇桜 夜半に嵐の吹かぬものかわ」(親鸞)の思いに囚われつつ、片や「災難に遭う時節には災難に遭うのがよく候。死ぬ時節には死ぬのがよく候。是は災難を遁るる妙法にて候」(良寛)みたいな達観にはとても至らない。多岐亡羊ではないが、「如何にすべきや」という逡巡の思いに駆られる近頃だ。

 そんな折、敬老の日の催事に町内の敬老祝賀会の案内が来た。国民の祝日だから国をあげて祝うのが本旨と思うが、国や自治体が大施設で挙行したことはない。敬老は所詮「軽老」か、なんて僻み根性が出てきそうだが、人生の諸事を知り尽くした老生たちは寡黙である。ともあれ町内でも招待を断るには及ばない。出席は初めてのこと、暇つぶしを兼ねて連れ合いと一緒にそそくさと足を運んだ。会場を見渡して目に飛び込んだのは、出席者の三分の二が女性。町内でも確かに元気いっぱいの女性高齢者が占めている。会の進行につれて次第に賑やかさを演じたのも女性、御近所の88歳は見事な美声で民謡の披露。酒が進むにつれて男性がカラオケに…などなど。二十人ほどの児童会のこどもたちの歌声がプレゼントされる中、河井酔茗の「ゆずり葉」を思いながら、久々の交流の場に心の和む一時を過ごした。

………………………………………………………………………………………………………………………

こどもたちよ、これはゆずり葉の木です。 

このゆずり葉は あたらしい葉ができると 入れ代わって古い葉が落ちてしまうのです。 こんなに厚い葉 こんなに大きい葉でも

新しい葉ができると無造作におちる 新しい葉にいのちを譲って。

こどもたちよ、 おまえたちは何もほしがらないでも すべておまえたちに譲られるのです。 太陽のまわるかぎり 譲られるものは絶えません…(略)…

みんなおまえたちの手に受け取るのです、幸福なるこどもたちよ、おまえたちの手はまだ小さいけれど。…(以下略)…

………………………………………………………………………………………………………………………

 「もしかしたら、歳をとるのは楽しいことかも知れない。歳をとればとるほど、思い出はふえるはずなのだから」(湯本香樹美『夏の庭』)、との思いにも駆られた敬老の日だった。

良寛和尚 円通寺