壺中の独言

「老い」の日々(にちにち)

秦 政博

第一回


 傘壽なって半年、老人とよばれるに妥当な齢だが、とくに老いを感じることもない。令和2年の厚労省統計では男性の平均寿命が81、64歳(女性は87、74歳と圧倒的差異)であることから、ちょうど平均値近くにいることになる。人に会うと「ちっとも変わらんな」と、冗談交じりの賛辞をいただくが、実のところ年相応に毛量が減って櫛が素通り、眉には3日と経たずに白毛が生じてハサミの世話になる。手や顔にポツポツと染み出て来たのは所謂シミとやらで、英国ではこれを「墓地のヒナ菊」というそうな。「ヒナ菊」の呼び名は良しとするが、「墓地」には当分近づくつもりはない。病気にならず自活できる「健康寿命」は、男女共に70歳前半が平均値。これもとっくに過ぎて医者の手を煩わせることもほとんどない。健康万歳だ。「今がゴールデンエージである」という『姥ざかり』(田辺聖子)の主人公歌子の気分である。
 健康の秘訣なんていうのは無いに等しい。敢えてあるとすれば、13年傍を離れない「佐武」との毎日の散歩。何よりも可愛く、いとおしく、生きがいを与えてくれる存在だ。もう一つはたぶん酒だろう?毎夕欠かさずに2、3合。冷酒でないといけない。至福のひと時を過ごさせてくれる妙薬―百薬の長である。「今夜はさけがうまい。と清左衛門がいうと、佐伯は…箸を置いて、不器用に銚子をつかむと清左衛門に酒をついだ」(藤沢周平『三屋清左衛門残日録』)、というように相手がいれば感激だが、いつも独酌。それでも「今夜もさけがうまい」。ちなみに「壺中の天」とは、酒を飲んで別世界に居る様子とか。 
 先日、6年生の孫(女児)と背比べをした。背中をくっつき合わせてみると、なんと孫の方が数センチも高いではないか。孫の成長に目を見張る思いの一方、片や自分の身長が縮んでいることにハタと気づいて、少しばかり複雑な思いをした。そういえば、近頃ズボンの裾が何となく長くなったなと感じていたわけだ。老人がやや背中を丸くして前かがみに歩いているのを見かけるのは、脊柱が縮んだせいに違いない。短躯になるはずだ。
 愛読書の一つ、書名からしてユニークな堀秀彦『銀の座席』(シルバーシートのこと)には様々な老いの表情が描かれている。「時代おくれ」とか「始末に悪い」とか「無為徒食」とか、あるいは「用済みのシャバフサギ」なんていう言葉も出てくる。しかしそれぞれに、結論は老人に生きる勇気、励ましを届ける。これを読みながら、「老いの幸せ」を思うときに、自分を「九幸老人」とする人のことを思い出した。1812(文化9)年79歳の杉田玄白である。いうまでもなく中津藩の前野良沢らと『解体新書』を翻訳した蘭学者。「九幸」は古希の時から使っていた号で、「太平の世に生きた」「良い友を得た」「長寿で俸禄を得ている」「子孫に恵まれた」など九つの幸を持てたことに因むといい、その肖像画の賛には、「閑として迎うる八十の春」とその境地を記している(芳賀徹『文明としての徳川日本』)。傘壽の老人をはじめ仲間たちよ、もう焦ることもない、「こころ閑(しずか)に」日々を送ろうではないか。

「佐武」と日本画(作:妻)