壺中の独言

コメの話

秦 政博

第二十二回

 

 小宅を構えている近所にはすっかり田圃がなくなり、西や東、北側にも高層の建物が我がもの顔に占拠している。かつて部屋にまで蛍が舞い込み、昼夜を問わず喧噪だったカエルの合唱といった風情は今いずこである。しかし少し郊外に足を向けると、田植えから半月ばかり、田圃には行儀よく並んだ早苗が背伸びをし、山間を辿るともう青々と勢いづいた稲株がちょうど梅雨時の天からのもらい水を得て、日本の原風景を描き出す。我等には鬱陶しいこの時期だが、そのお陰で日本のコメが育っている。「瑞穂の国」を見る昨今である。

 約3千年前近くの縄文時代晩期に、大陸から伝わった稲作が北九州を初め各地に広がって、日本の国造りと文化の基底になって行ったことは常識の範囲。先人は「稲は命の根なり」(『藻塩草』)といい、また「いねとは、いつくしき苗」(『日本釈名』)とも呼んでいる。

 

 今年になってコメ不足の報道を耳にするにつけ、かつての日本農政の愚策とでもいえようか、例の「減反政策」のことを思い起こす。その始まりは昭和45年(1970)。そのつけの現れたのは59年(1984)。コメ不足に遭遇して、たまらず外国米の緊急輸入。お陰で?小宅ではタイ米の味を覚えたが、経験した人も多いことだろう。農村を担う若い農業者の減少の故に、じいちゃん・ばあちゃん・かあちゃんの「三ちゃん農業」と揶揄された農業従事者の変貌、作付面積の縮小、農地の荒廃など理由は様々だが、減反農家への金縛りと引き換えに、「日本の主食を作るな」というのでは、農村が衰退するのは当然であろう。これらに起因する連鎖的な農業不振に重い腰を上げたのはつい最近、平成30年(2018)にやっと制度廃止になったことは記憶に新しい。実は今日のコメ不足もそうした連鎖のもたらした結果である。

耕地面積の歴史を見ると、戦国頃までは約68万ha、江戸の中ごろには301万ha。戦国時代以来、とりわけ江戸時代には水路の開削が非常な勢いで進められ、干拓地が造成されるなどして山奥から海辺までが農地にされた。郷土では、宇佐平野を潤す広瀬井路、お初伝説で知られる大分の初瀬井路、水運でも知られた日田の小ケ瀬井路など、列挙にいとまないほど井路建設が有名無名の人たちによって進められた。水を引き「一粒万倍」のコメを得るための、先賢たちの粒粒辛苦の足跡は今も健在で役割を努めている。。

 しかし、現況は厳しさを増している。田の面積では、2年前の令和4年は235万2000haで前年より1万4000haの減少、同5年はこれよりさらに1万7000ha減って233万5000ha(農水省統計)と、まさに田圃自体の先細りの状況が続く。荒廃田を旧に復すのは困難の極に違いないが、日本の食料備蓄はたったの1カ月ほど。食料自給率は38%でしかない。年約1兆円でコメ備蓄を今より5倍に増やせるらしい(『毎日6月29日』鈴木宣弘東大特任教授)。それに向けたコメ政策が何ともしても必要だ。

 

 暑気と水とで日一日、稲株が伸長するこの時期、夏のような暑気に我等も水が欲しい。でも本音を言えば、「青い田の露を肴や一人酒」(一茶)。諸君もそうかな?