壺中の独言

枯れ葉

秦 政博

第二十五回

 

 11月も半ばを過ぎた。高温と豪雨の異常気象に振り回された季節も、ようやく終息したかのようにある。遅めの秋が里に段々に近づいているなと感じるこの頃である。あちこちの木々が次第に衣装を脱ぎ出した。公園や道端では、葉が真黄色に変じた公孫樹(イチョウ)の実、ギンナンがそこかしこに落ちているが、異臭のせいもあってか誰一人拾う人もいない。中国ではこの葉っぱが「鴨脚」に似ていると見立て、「イーチャオ」「ヤーチャオ」などと呼んだことからイチョウになったとか?公孫樹と書くのは、孫の代になってやっと実をつけるようになると言う謂われかららしいし、銀杏(ギンナン)」の名前の由来は、杏に似た実で殻が銀白であることからと言う。

 

 拙宅の狭い庭にあるソメイヨシノとヤマザクラ、ウメやモミジはそこそこに葉を落とした。秋は侘しい。その侘しさを一層掻き立てる曲者が、寒風とそれに舞い立てられた枯れ葉。カサカサになって触れれば崩れんばかりの哀れな姿が、風に押されて彼方此方の隅っこに吹き寄せられている。生気を無くしたその形容に、八十の齢をとっくに過ぎた我が身が重なる。内から燃え立つ熱がなくなったのはいつの頃からか、水気の少なくなった手をさすりながら、働きの鈍くなった脳力で考えごとを巡らせても、これまた切れた電線に等しい感がする。

 

 雨後の落ち葉は、べったり地面にくっついた厄介者。その様子に因んでいう「ぬれ落ち葉」は退職亭主の日常行為を揶揄する嫌な表現だ。これまでとは一変して家で過ごす時間が多くなり、いきおい暇を持て余し勝ちな生活になると、奥方(「連れ合い」とか「パートナー」と言ったほうがいいのかも)の一挙手一投足をやたら注視するようになって、相手の動きに合わせて「オレもそうする・そうしたい」型に変容する。この「べったり型」が「ぬれ落ち葉」、別称「オレも族」とも言うらしい。また、これまでの長い間の仕事が終わってしまうと、何故か今度は「産業廃棄物」。誰が付けたのか、まことに失敬千万な謂われ方である。

 

 葉っぱには、厳冬にも落葉しないスギやマツ、ツバキやカシワなどの常緑樹がある。常緑樹が寒さに耐えるのは、葉っぱに糖分をたくわえる努力をしているため。つまり砂糖水を作って凍りにくくしているからである(田中修『植物はすごい』)。その力にあやかっての言葉が「歳寒の松柏」、どんな苦難でも信念を貫くと言う譬えである。この歳ではそこまでの能力はとても残ってはいないが、毎宵に欠かさず2,3合ちかくを喉に流し込むアレは、確か多分に糖分を含む飲み物であろうか、切れた電線を部分的にでも修復できることを期待したい。酒精に馴染めない向きは、ジュースや水でも如何かな。「六十にして耳順、七十にして心の欲するところに従い矩をこえず」との孔子様の言うことを真面目に実行したら、本物の「枯れ葉」風情が身に付いてしまいそうだ。「枯れ葉」になるのはまだ早い。諸君、とくと用心めされよ!